Rose Chiharu’s blog

FINAL ACT起こしますよ!とにかく、黙っていられないからね(ーдー)…

反日政策〔コロナワクチン計画=人口削減計画〕【江戸時代以来の医学校が東京大学の前身(医学校(医療業界)の成立ちと江戸の街)】

マスコミ軍閥組織(日本政府の広告媒体)の裏側構造に気付く二十年の歳月

十年以上いた、マスコミ軍閥組織関連の似顔絵会社…遡ると、芸能事務所時代に様々な映像作品の通行人やバラエティの再現ドラマ、トレンディドラマの配役などのエキストラの仕事を担当…わたしは、テレビや雑誌などの広告媒体にも、出演させて頂く機会があって有名人芸能人の方々の似顔絵を描きましたよね!当時、なかなか良い、経験でしたヨ!!実は、有名人芸能人の似顔絵を描くうちに、国会議員、官僚の裏側構造を知って、さらにさまざまな有名人、専門家、政治家、ジャーナリストの講演会を聞きに行く機会にも恵まれて百以上の方々の、講演会に足を運んで、これまで政治や歴史を学んできたのです…!

 

マスコミ軍閥組織の内部から見た世界(内部告発

その過程で、日本の一般人の最大の敵が、誰なのかはっきりとわかったのですよ!つまり、最大の悪魔崇拝組織は《マスコミ軍閥反日メディア)》だとわかったのです!わかりますか?

マスコミ軍閥組織が、この日本という社会のすべてにおける『諸悪の根元』なのですよ!以降、わたしは、自分のフラワーブログに「テレビは暴力装置、洗脳装置」であると何百回も、マスコミ批判のブログ記事を書いてきましたよ!!マスコミ軍閥組織(中枢は電通朝鮮組織)のシナリオライター、作家たちは、スポンサー企業の国家商業につねに荷担しているため、ニュース番組も、毎日毎晩、嘘っぱち内容の原稿、台本を作って国民を騙して、洗脳し、枠毒珍(コロナワクチン=世界人口削減計画)に誘導しているのですよ…

2020年以来、すべてのコロナ報道は明治政府マスコミ軍閥組織所属のシナリオライター、作家の作った《コロナシナリオ=(嘘っぱちウイルスストーリー)》ということですよね!

つまり、コロナ報道は【コロナ報道詐欺計画=プランデミック】で世界規模の人口削減計画なのです。ビル・ゲイツなど、欧米軍閥組織=フリーメーソン(国際銀行家、国際金融資本)は百年毎に、ワクチンなどのクスリ(薬害)による意図的計画的な『世界人口削減(薬害計画)』を断行しているのですよ…

そもそも、子宮頸がんワクチンもコロナワクチンと同様に『人口削減計画』のために劇毒物の成分を使っているのデス。さらに過去、日本でも薬害エイズ訴訟がニュースに報道されており、〈エイズ〉という病気、病名もじつはシナリオライターの創作物なのです…つまり、エイズウイルスも嘘です!薬害エイズ訴訟を長年がんばってきた一般人たちは、国の医療業界の薬害計画の被害者です…つまり、すべてクスリ(薬害)が原因で、死亡者が出ていますね。

エイズという病名で患者(顧客)をつくり、患者をターゲットにしたクスリ(薬害)で莫大な金儲けをしてきた、日本の製薬企業群、医療業界なのです。官民一体、政財界人、大企業群、大学院、製薬業界、マスコミ軍閥組織が、裏側ですべて癒着している裏側構造が、明治維新政府から続く『スポンサー国家商業システム(田布施システム)』ですよ…

じつは2020年以降コロナワクチン政策を拒んだ、アフリカの大統領たちが、次々と暗殺されているのです…コロナの真実を話した有名人たちも次々と暗殺されてしまいました。アフリカでは、何度も「ワクチン薬害計画」が断行されている現状があり、多くのアフリカ大統領たち権力者や、一般人は《ワクチンは毒物である》ということを、すでに知っています。

 

過去、百年おきに、ワクチンで人口削減計画が断行されており、百年前は、スペイン風邪(嘘ウイルスシナリオ=嘘話原稿)で人々を怖がらせて、アスピリンで薬害人口削減計画を実行しました…ライオン株式会社が1963年から発売するバファリン(解熱鎮痛剤)は、1950年アメリカのブリストル・マイヤーズ社が開発、発売してきましたが、その主要成分も、消炎鎮痛剤としてのアスピリン(アセチルサリチル酸)や緩衝制酸です。ライオンは日本の有名企業の一つであり、バファリンは現在の日本国内の薬局でも、日常的に販売されているのデス…

人々を恐怖心に陥れる病名や細菌名(名称シナリオ)

 

江戸時代、すでに蘭学(=当時の西洋医学)や薬害(御薬園)の研究があり、明治政府時代には、交易、外航船舶の発展で、船の検疫所(=横須賀検疫所、長浜検疫所)など、さまざまな種痘や細菌や、ウイルスが、当時の政府マスコミ軍閥の作家、シナリオライターたちによって『病名(嘘話原稿=ペストやコレラ天然痘など)』がつくられており、マスコミ軍閥が発行する雑誌や新聞(明治3年12月発行、横浜毎日新聞=日本初の日刊紙)などが、人々を怖がらせていたのです。これら《作り話的》な病名、病気の創作物の源流は、江戸時代の医学館、医学館考証派の「考証医学」ですよね…

 

オランダ貿易の拠点、長崎で蘭学を学んだ高野長英

つまり、かつての権力者組織が人々をコレラ天然痘などの〔種痘名称=嘘話原稿〕で、恐怖に陥れた理由があります。江戸幕府時代の西洋人の学問所(医学所=蘭学、医療専門機関)は、現在のマスコミ軍閥と同様の手法(江戸時代に江戸幕府が法度などの情報を庶民に向けて掲示した「高札場」や現在の新聞のような役割の「瓦版」=江戸時代のマスコミ軍閥組織)や各種の雑誌で恐怖心を煽って、クスリ(製薬、製剤)に、人々を誘導したのです…徳川幕府江戸幕府時代)以前から、早くから日本の権力者は中国医学漢方医学から学び、『医心方』という大作をものにしました。つまり、西洋医学とは別の、漢方医学が中心にありました。しかしながら、江戸時代以降、オランダなど欧州と交易が盛んになり、蘭学が入って官学としての学問、医療業界の研究分野が定着しました。蘭学、とくに解剖学で、幕府の御典医たちは、解剖の技術も身につけることができたのです。江戸後期から幕末にかけて、蘭学医として活動したのが、岩手県出身の高野長英です。岩手県奥州市の三偉人(後藤新平斎藤実)のひとりでありました。江戸幕府には「開国派」の疑いを持たれ、嘉永3年10月に江戸の青山百人町(南青山5丁目)に潜伏中に見付かり、南町奉行所遠山景元の同心や補方らに捕らえられ自刃し、46歳の生涯を閉じました。長崎のシーボルト鳴滝塾で医学、蘭学を学び、蘭語論文をシーボルトに提出し、ドクトルの称号を受けて活躍しましたが、シーボルト事件では詮議を受け、長崎から出国して身を隠していました。後に、天保8年のモリソン号事件の翌天保9年に「戊戌夢物語」を著し幕府の攘夷策(攘夷論)に反対したために、天保10年に蛮社の獄が勃発し、長英らも幕政批判のかどで捕らえられ、伝馬町牢屋敷に入れられました。

 

高野長英の開国論思想(シーボルト事件、蛮社の獄

シーボルト事件は、文政11年(1828年)に幕府天文方書物奉行高橋景保が資料と引き換えに、禁制の地図をシーボルトに贈った事件であり、幕府に衝撃を与えたため、蛮社の獄が断行されました。

 

幕末の攘夷論江戸幕府の中心思想

攘夷論は、当時の江戸幕府の思想の中心になりました。幕府直轄領である武蔵国相模国(現在の神奈川県辺り)の三浦郡三浦半島には、幕府は異国船対策として、18箇所に御台場を設置し、厳重な海防政策をして、江戸湾東京湾)に、異国船や違法の舟が侵入するのを防ぐ監視を行いました。灯明燈は、江戸時代の灯台であり、浦賀奉行(船改め政策)の近くに、毎晩灯されて、航行する船を見張りました。海防政策には、会津藩川越藩など、中心になって行なわれましたが、時代により、担当藩が変わったりしました。会津藩は、家族一同、大勢で武蔵国三浦郡に移住し、生涯三浦郡三浦半島)で過ごした人が多いので、いまでも三浦半島の寺院に会津藩墓所があります。会津藩福島県)の地域では、家族(大家族、家系)を重んじる風習があったようです。

 

攘夷論水戸藩薩長同盟に利用された「尊皇攘夷論=倒幕運動に発展」

しかし後に、その攘夷論を過激さのある水戸学、水戸天狗党らの思想や、吉田松陰松下村塾の門下による薩摩、長州藩士の薩長同盟の志士たちが、【尊皇攘夷、勤王思想】として利用しました。徐々に「尊皇攘夷論=攘夷派=倒幕運動」になって、江戸幕府を倒す幕末の運動に発展しました。戊辰戦争明治維新)では、尊皇攘夷論思想(倒幕派)の薩長同盟(西軍)は、天皇家から擁護されて、天皇から[錦の御旗]をもらい、戦場で掲げていました。

 

江戸幕府軍(東軍)は会津藩や、奥羽越列藩同盟

 

奥羽越列藩同盟旗]

これに対して、江戸幕府を擁護する思想は、佐幕派と呼ばれました。

明治維新期、戊辰戦争の時の江戸幕府軍(幕府海軍)は、東軍であり、東北地方の大半がこれに味方し、輪王寺宮公現入道親王を盟主とした奥羽越列藩同盟ができました。南山御蔵入領(幕府直轄領)などのある陸奥国福島県新潟県、栃木県の一部)地域は、会津若松城があり、会津藩が中心でありました。

 

公家と武家天皇家江戸幕府将軍家)の合体=公武合体

また、幕末の尊皇攘夷思想に対抗する思想として、「公武合体派」という思想が生まれました。つまり、尊皇攘夷、倒幕思想運動が盛り上がる世論の中で、乱れた情勢に危機を感じる江戸幕府は、天皇家の力を身に付けることで、権力体制の強化に務めました。この中心となる出来事が、【和宮親子内親王(静寛院宮)の降嫁】でした。これは公武合体政策として、天皇家が将軍家と、婚姻の儀を行ったという、天皇家の歴史の中の一大イベントでした。和宮親王は、京都の桂宮邸を出て、中山道を通り江戸幕府江戸城へ入り、婚儀を開きました。

つまりは文久2年(1862年)2月11日、和宮親子内親王徳川家茂の婚儀が行われましたが、その様子は、それまでの13代の将軍たちの婚儀とは異なっており、和宮征夷大将軍よりも高い身分である、内親王の地位で降嫁したため、嫁入りした和宮が主人、嫁を貰う家茂が客分という逆転した立場で行われることとなりました。

要約すると、文久2年(1862年)2月11日、和宮親子内親王徳川家茂の婚礼が行われ、これは仁孝天皇の第8皇女である、和宮親子内親王(称号は和宮(かずのみや))が、江戸幕府第14代将軍徳川家茂と婚姻関係を結び、正室御台所)となった歴史的婚儀です。政治的な意図である、公武合体が目的の降嫁でした。和宮親王孝明天皇の異母妹です。明治天皇叔母でもあります。

和宮親子内親王は、皇族(公家)ですから、将軍家(武家)と皇族(公家)の仲介者的な立場になってしまいましたが、家茂とは仲が良かったようです。

家茂は、大坂城で軍事指揮をしていたときに、21歳の若さで病死しました。家茂は、安政5年(1858年)将軍後継問題で慶福を推す派閥「南紀派」が「一橋派」との政治抗争の末に勝利し、直後に第13代将軍徳川家定も死去したために、第14代将軍となりました。慶福改め家茂はこの時13歳という若年でしたが、第13代将軍徳川家定の従兄弟に当たり、前将軍の最近親ということから、血縁を徳川家康まで遡らなくてはならない一橋慶喜を抑えて、将軍に就任した経緯があります。

 

江戸の白山、日光に御薬園を造園した江戸幕府の医療、医学

じつは江戸幕府初代将軍、徳川家康も製薬、製剤、というクスリの調合技術や製薬開発、つまり薬学には、莫大なカネを注ぎ込み、医療研究に没頭した史実があるそうデス。現在の東京都文京区白山にある、東京大学大学院理学系研究科の付属施設は、通称が小石川植物園です。栃木県日光市にも日光分園があり、通称は日光植物園ですね!1638年麻布と大塚に、南北の薬園を開設ののち、大塚は廃園してしまい1684年麻布の薬園を、徳川五代将軍綱吉の拠点である小石川にあった別邸に移しました。そして八代将軍吉宗の時に、薬草園として利用されました。(御薬園=小石川植物園については後述します)

近くの、文京区後楽にある小石川後楽園(現在の東京ドームシティ内)は、江戸時代初期に、水戸徳川家の江戸上屋敷(大名屋敷)に築山泉水回遊式日本庭園として開設されました。つまり、この日本庭園は、水戸藩祖の頼房のときに起工し、二代光圀のときに完成し、現在の小石川後楽園として残るのです。

 

水戸藩の初代頼房、二代光圀の国学【彰考館】

水戸徳川家徳川御三家の一つ)の初代は、お万の方(養珠院)の子、徳川頼房であり、頼房は徳川家康の十一男として伏見城で誕生し、慶長14年(1606)に水戸に25万石で移封し、神道国学など学び、二代目徳川光圀にも多大な影響を与えました。頼房の三男である光圀は、彰考館を開設して、国学儒学を極めてゆき「大日本史」という最大の歴史書の編纂事業の中心人物となって、水戸学の源流を作り上げました。光圀は、中納言であり、その唐名によって〈水戸黄門〉の名として親しまれました。つまり現在の茨城県水戸市に、親藩(御三家)の水戸藩徳川御三家のひとつ)が、35万石を所有したのです。常陸国は、現在の茨城県と、ほぼ地域が一致しており、太平洋側辺りに、中心には水戸城があり、佐竹氏の秋田移封後に、徳川家康の十一男、頼房が水戸城に入りました。御三家である水戸藩(水戸家)は、江戸に常府しました。つまり、水戸藩は参勤交代はなかったのです。水戸城は、千波湖那珂川に挟まれる丘陵地に建ち、大手門の枡形や空堀が残り、三の丸跡には藩校の弘道館が残ります。

 

多紀元孝(多紀家)が創設した躋寿館(後の医学館)

 

現在の浅草橋駅近く、三井記念病院の隣り辺りに、官医を養成するためにつくられた、医学館(教育施設、私塾)が、幕府の奥医師、多紀元孝(安元)によって開設されたのは、江戸中期です。元孝は、平安時代の医家、丹波康頼の家系です。つまり丹波流多紀氏初代が多紀元孝です。明和2年(1765年多紀元孝は、江戸の神田佐久間町に躋寿館(せいじゅかん)を設立しました。躋寿館は、官立学校を意味する「学」の字を憚って「躋寿館」と称しました。躋寿館は、漢方医学(江戸時代の中心的な医学)の教育のため、私塾として創設されました。寛政3年に、躋寿館は幕府(官立)の医学館として認められると、元孝の孫の元簡は医学館で助教として、医官の師弟を教育しました。

文化3年(1806年)に、医学館が焼けたため、下谷新橋通(向柳原町)に再建して転居しました。

医学館は、初期のものに熊本藩宝暦6年(1756年)に開設した再春館や、薩摩藩安永3年(1774年)に開設した造士館医学院があります。

多紀元孝の五男は、多紀元徳であり、元徳は江戸中期の奥医師として、十一代将軍家斉の侍医御匙となり、元徳の長男、元簡も、父の後継として家斉の侍医御匙となりました。そして元簡の子、元堅は、医学館考証派を代表する漢方医となっていきました。元堅の父、元簡は《考証医学》を確立しました。元簡のあとは、元簡の三男、元胤が多紀家を継ぎました。多紀家は仁和寺の医心方を騰写して奉上しました。それぞれ僧位を持ち、法眼法印の位を授けられ、菩提寺東京都北区上中里城官寺であり、多紀一族の墓所があります。

 

そして元簡の五男、元堅は分家し、矢ノ倉多紀家を称しました。つまり矢ノ倉多紀家の初代は、多紀元堅です。幕府の医学館の総裁を務めたのが、多紀家の分家の矢ノ倉多紀家の第ニ代である、多紀安琢です。父は医学館考証派の巨頭、多紀元堅です。安政4年(1857年)の父の死により家督を相続、奥医師に任命された安琢は、同年12月16日に法眼に叙せられ、文久元年(1861年)本家の多紀元佶、最初に蘭方医として奥医師に登用された伊東玄朴の、両名と、同日に法印に昇進し、養春院と称しました。一時、病により奥医師の列を離れ、元治元年(1864年)6月3日に安琢は寄合医師から奥医師に再任し、将軍徳川家茂御台所、和宮親子内親王の主治医を務めました。


製薬剤(解熱鎮痛剤など含む薬剤、製薬の医療業界は最大の国家商業)

人々を恐怖心に陥れることで、製薬剤(さまざまな薬品、ワクチン)に誘導して、医療業界(明治政府最大のスポンサー業界(二大スポンサー=医療業界、軍需産業界))は莫大な金儲けをしていました。まさに、政府マスコミ軍閥組織は、スポンサー国家商業組織と断言できますね!

そもそも、ワクチンというのは欧米軍閥組織フリーメイソン権力者が『世界人口削減計画』を企てる中で、発明された〔劇毒、毒薬〕ということで、ワクチンなんて、最初からクスリではないし、意図的に毒物をたくさん盛り込んで開発、調合されたものですからネ。

 

医療業界は明治政府(日本政府の国家商業=西洋医学導入政策の計画)

 

医療業界=明治政府(日本政府)の西洋医学導入(医制計画)政策は、江戸時代、安政2年江戸小川町に開設した洋学所(1855年)が最初であり、直後の安政の大地震で焼失の後、蕃書調所(1856年)が九段下に開設され、文久2年に神田一ツ橋門外に移し、1862年洋書調所と改称し、さらに翌年1863年機構拡大し開成所となり、開成学校となりました。

開成学校が、大学南校(分校)になり大学東校(分校)と昌平坂学問所(本校)と統合されて、現在の東京大学(1877年)になった歴史があるのです。つまり1630年忍岡学塾、湯島聖堂付属学問所(1691年)、昌平坂学問所(1797年)は、東京大学の中心組織(本校)の前身といえます。湯島聖堂は、林羅山が上野忍ヶ丘に設けた孔子廟を、湯島に移設したもので、当初は林家の私塾だったのです。しかし寛政の改革で、幕府の公的機関として、昌平坂学問所となりました。

種痘所開設(1858年私設、1860年開設)、西洋医学書(1861)、医学書(1863)、医学校(1868)が、1869年開設の大学東校になりました。

 

東京大学は明治政府(フリーメイソン政府)の最大の国家事業、国家商業組織として開業

 

こうして、東京大学は欧米軍閥組織関係者、欧米人学者たち(ユダヤ人も数多くいた)の実験の場となり様々な薬剤、薬品の開発事業、実験場としての実験室の役割を担い、最大の近代医学校として成立、創業したのです。もちろん欧米軍閥組織フリーメイソン関係者、ユダヤ人(お雇い外国人)も大勢学校創業のために来日していました。横浜開港地と同様に、西洋人(ユダヤ人教師)の集う場所が、東京大学であったという史実、由縁があり、まさに日本でのフリーメイソン組織の最初の活動地が、現在の日本の、最高教育機関である「東京大学」なのです。東京大学の建物は、歴史ある佇まいで、さらに過去に様々な薬剤関係の実験室として、使われてきた痕跡(建物の壁伝いに配管のような、往時に煙突を使用した疑惑を思わせるものあり)が見受けられますよね。東京大学本郷地区キャンパスの建物は、スクラッチタイルなど、当時のデザインが全面的に使用された、昭和期レトロな建築物の外観が印象的であり、レンガ色の重厚感、シンメトリーの設計は、著名な建築家、内田祥三によるものです。昭和13年厚生省によって建設された、公衆衛生院は、現在の白金台駅近い一帯にあり、港区立郷土歴史館になっています。この旧公衆衛生院の建物も、内田祥三による設計で、東京大学本郷地区キャンパスの大講堂(安田講堂)と、非常に似ています。ここから目黒通りを西に行き豊かな自然のある一帯は、讃岐高松藩松平家下屋敷跡である、国立科学博物館附属自然教育園があります。明治維新の戦禍の時代以後、海軍火薬庫になっていたのです。軍事基地利用の流れから、大正期には皇室のものとなり、白金御料地と呼ばれました。第二次世界大戦後に、国有地になり現在、国立科学博物館附属自然教育園は、自然保護の活動や、教育普及事業を行う場所です。この敷地内には、昭和8年竣工のアールデコ建築の邸宅が建てられました。この建設物は日本の伝統的モチーフと、アールデコ装飾の融合による、独特のオリジナルデザインのアールデコ住宅で、フランス留学中のパリのアールデコ博覧会から、影響を受けて建てられた、朝香宮鳩彦王の居住空間が今も生かされ、東京都庭園美術館として開館されています。

現在の東京大学本郷地区キャンパス東京大学本校)は、江戸時代に最大の石高を誇った、加賀藩前田家の上屋敷跡にあり、著名な赤門は、前田家の屋敷門でした。同じく文京区の、東大前駅東京メトロ南北線)近くには、水戸殿があり、徳川光圀が中国の明から招いた儒学者朱舜水は、ここで暮らして、学びました。東京大学本郷キャンパス隣りにあり、湯島天神に近い、麟祥院(りんしょういん)は、三代将軍徳川家光の乳母である、春日局菩提寺です。春日通り、春日町の地名の由来です。春日局は、浅草寺に参拝中に、お楽の方を見付けて大奥に上がらせ、お楽の方は、後に家光の側室(宝樹院)になったといいます。

湯島天神の隣りの辺り一帯は、越後高田藩榊原家の中屋敷跡で、明治初期から三菱財閥岩崎弥太郎邸宅となって、現在は国の重要文化財に指定されています。その岩崎邸から不忍通りを北に行くと、上野台地と本郷台地の境に位置するところに、堺稲荷が祀られており、境内には名水弁慶鏡ヶ井戸があります。そのさらに北には、池之端臨済宗の正慶寺があり、境内には江戸初期の和学者、幕府の歌学方の北村季吟の墓があります。さらに北に行くと、根津駅近いところで、言問通りを歩くと天眼寺という、臨済宗の寺院があり、ここは忍藩松平家墓所があり、江戸中期の儒学者、太宰春台(著作は経済録)の墓所もあります。その北には、臨済宗の寺院である臨江寺(1630年創建)があり「山陵志」を著した《寛政三奇人》のひとりである蒲生君平墓所があります。根津駅から西へずっと行き、旧白山通りの白山駅都営三田線)近い一帯には、小石川植物園があります。小石川植物園は、江戸幕府が薬用植物を育てる目的で開園したらしく、御薬園と呼ばれました。青木昆陽が、サツマイモを初めて育てた、試作地としても有名です。御薬園内には、町医者、小川笙船が目安箱に投票したことで建てられた養生所(医療施設)があり、ここを題材に昭和戦後に活躍した作家、山本周五郎は「赤ひげ診療譚」を書きました。東京大学総合研究博物館の《小石川分館》は、現在の小石川植物園に移築されており、東大の中では最古の建築物です。

 

陸軍軍医学校の拠点は、新宿〜大久保周辺地域

様々な軍閥組織の金融機関(銀行、銀行資本)と軍需工場(京浜工業地帯など)の軍需産業が、天皇大権=金融機関のスポンサー企業として、「医療業界、医学校(軍医学校)」を経営してきた時代がありますね。とくに、現在の皇居(宮城=東の京都)は、もとは江戸幕府城であり、皇居周辺地域には、明治末期から大正期に、どんどん軍事基地化してゆき、昭和期に本格的な軍需産業界の時代に突入しました。日中戦争、太平洋戦争の裏側、時代背景にも、もちろん《医学校、軍医学校》や《軍需産業工場群》の国家商業利益が、目的としてありました。最大の軍事国家化体制の裏側です。

 

全ての広告媒体が製薬企業のスポンサーになっている日本国家の裏側構造

 

テレビや新聞、雑誌、ラジオ、ニュースサイト、YouTubeなどすべての〔広告媒体=スポンサー企業商業〕や、世界の通信社〈AP通信やAFP通信等〉は、三年近く、ずっとワクチン(計画的な薬害計画)による人口削減計画を断行しているのです…

有名人芸能人信仰= メディア信仰=コロナウイルス=メディアウイルス=テレビは暴力装置ですからね。わたしは、首都圏の都心部を中心とした駅前、街頭、住宅街で、市民活動仲間たちと〈コロナワクチンの毒性、危険性〉を演説したり、街や団地でビラ配りして周知活動に励んで来ました!

普段、わたしは三年間ずっとマスクをつけずに外出しているのです!しかしながら世の中の人々は、街中でもずっとマスクをしているようで非常に残念です…

かなり、精神的にも疲労困憊なので、いまは、あまり周知活動に参加していませんが…

ツイート周知活動は続けているので、全世界からの声援、応援よろしくお願いします!!