国内の情勢では
闇バイト、闇金融、闇カジノなど
トクリュウのグループ(特殊詐欺、匿名流動型詐欺グループ)関連のニュースで
賑わっていますが、この関連は
日本だけにはとどまりません…
じつは、SNS世代、若者世代を
ターゲットにした「闇バイト、違法風俗」などの
犯罪案件、事件が世界的に広まっており、
とくにアジア地域の売春街では
様々な事件や事故、行方不明事件が
頻発しているようです。
日本の風俗業界(芸能業界)が、
景気悪化のために、崩壊寸前であり
若者世代は、SNS上で
【海外出稼ぎ】【高額報酬案件】の
宣伝広告に騙されて、安易に渡航しているため
近年トラブルに巻き込まれる事例が増えています。
アジア地域内で、事件沙汰になったり、
最悪の場合、死体で発見される場合もあるくらい
危険区域での売春業は危険極まりないのです。
ツイッター(X)で、詳しく発信している
ジャーナリスト泰梨沙子さんの
ツイートを読んでみてください!
(フリージャーナリストの泰梨沙子さんの
ツイートより引用しました
以下@hatarisako
【出稼ぎ風俗、タイで日本人女性らがたびたび行方不明に】
タイでは出稼ぎ風俗に来た若い日本人女性が行方不明になる事例が相次いでいます。
昨年タイで保護された日本人女性に事情聴取をした現地弁護士によると、女性はタイの国境沿い付近で裸足のまま発見されました。
その女性の供述によると、
・キャバクラで働いていたところ、出稼ぎ風俗の案件を仲介役の男に持ちかけられた。
・タイの空港に到着し、仲介役にパスポートや荷物を全て預けた。その際、初めて会う日本人女性も一緒に車に乗った。
・タイ国境から小舟で川を越えた。(ラオスに渡った可能性が高い)
・売春施設に到着すると暴力を振るわれ、薬を盛られて意識が朦朧となった。
・その後は毎日のように客を取らされた。客は全て中国人だった。
・空港で一緒になった日本人女性も、同じように働かされていたが、ある日突然いなくなった。(女性がどうなったかは不明だが、弁護士は亡くなっている可能性が高いとの見方)
・女性は隙を見て逃げ出し、自力で川を越え、タイ側に戻ったところを保護された。
弁護士によると、タイに入国した後、認められた滞在期間を超えた後も出国した形跡のない日本人女性が、昨年だけで50〜60人いるそうです。)
ツイートの一部分を引用させて頂きました。
中国マフィア(日本国内の中国人ヤクザ関連)が、
ラオスの中に『黄金三角地帯(中国植民地)』を
形成しており、実質中国人権力者組織が支配する売春街のようです。
売春業のみならず、ありとあらゆる違法な商業が
その黄金三角地帯内で、断行されているので
こんな危険区域に、日本女性が出稼ぎに行くのは
絶対にやめましょうね。
中国共産党の軍隊は、すでに
アジア地域の国境付近を越えて、
タイやラオスなどのアジアに軍事拠点兼売春街をつくったりして、
性欲満たしたり、奴隷人身売買したり、
麻薬組織が商売したり、違法賭博を商業化したりと
これは、日本国内にある
中国街(中華街)やコリアタウンに似ている裏側構造です。
以前、記事に書きましたが
新宿歌舞伎町は
新大久保のコリアタウンに近いし
戦後の闇市から、新宿歌舞伎町の街づくりが
始まりました。
同様な裏側構造で、
横浜開港地(関内、関外)の中には
港崎遊郭(花柳街)がつくられて、以降は
何度も移転したのちに、現在
横浜橋通商店街の一帯が
コリアタウンとして存在するのです。
横浜開港地=中華街・チャイナタウンや
中国人や朝鮮人のつくる街には、
必ず「風俗業界街」がありますよね…
それは世界各国共通のようです。
軍隊基地拠点=風俗業界拠点、賭博業界拠点
かつての横浜開港地の中心には、
存在していたのデス…
イギリス軍、フランス軍は
今の、港の見える丘公園一帯を
軍事利用して、拠点にした史実があり、
私が長年かいている、歴史論文の
『真実の横浜の史実』を参考にしてください!
さらに太平洋戦争(大東亜戦争)の
時代以降、戦後政策(GHQ植民地支配政策)
の植民地政策の目的で
ダグラス・マッカーサー(連合国軍総司令官)と
最初に到着して(1945年8月30日)から
長後街道、国道一号を
進行して最終地点の
横浜開港地=関内を接収したのです。
ホテルニューグランドに一泊し、
当初のGHQ総司令部(連合国軍最高司令官総司令部)を設置し、
約一週間執務につきました。
その後、占領軍総司令部が皇居の御濠端に面する
第一生命館ビルに、正式に司令室を設置して
約7年間の日本占領政策が断行されました。
その横浜開港地を幕末に
西洋人街(異人街)としてつくったのが、
ペリー黒船アメリカ海軍隊です。
横浜開港地(関内)が、
欧米フリーメイソンによる
日本最初の植民地(租借地)であるので、
もちろん、
3S政策のマスコミ芸能業界、エンタメ業界ですよね。
戦後当時に
朝鮮人が日本で始めたのが
芸能業界でしたからね!
明治初年(1868年)に
明治維新政府(薩長土肥、薩長藩閥フリーメイソン、朝鮮人組織)が
江戸時代からの芸人、俳優を取り締まるために
「鑑札制度」を敷いて、明治政府の警察が
発行する鑑札を、芸人(今の芸能人に相当)に
持たせるようになったのです。
江戸時代、歌舞伎や浄瑠璃、人形芝居屋などの
芸人、芸能人たちは、関所(関門=通行制限したり、街道の権限を持つ門)で芸を披露したり
あるいは、簡単な物語(シナリオ作品)の
芝居を演じたりして、通行許可を得ることが可能だったのです。
武士社会での芸人、芸能人たちの社会的地位は
かなり高い位置だったようです。
しかしながら、明治政府の要人たちは、
芸能業界を支配する計画を持ち
鑑札発行の政策をしたのです。
そのような流れの明治初期は、
芸能業界も政府支配下に入りました…
じつは、明治財界人、元勲たちのお気に入りには
置屋芸者や遊女、女郎も多いため
今でいう〈ファン〉として、有名人芸能人を
サポートしていたようです。
政財界人らは、大金を持っているし、
パトロン、タニマチとして、金銭的に
有名人芸能人たちを支援もしていたのですね。
川上貞奴は、かなり明治財界人には人気があったそうです。
現在の日本の芸能業界の芸人、芸能人は
朝鮮出身者や帰化人が多いですが、
それは太平洋戦争時代以前の韓国併合、
影響で、日本に朝鮮人が
大量に移住した過去の政策によるものでしょう…
つまり戦時中、伊藤博文らが
韓国(朝鮮)を植民地支配していたため
日本には大勢の朝鮮人が
連行されていたのです。
戦後に朝鮮人は朝鮮に帰らずに
日本に残りました…
その居残り朝鮮人が、
戦後の日本の芸能マスコミ業界の
中心的な有名人芸能人になった経緯がありますから、
現在も、日本の芸能業界の裏側には
多くの朝鮮人有名人、中国人有名人、
或いは帰化人の有名人芸能人が活動しているのです。
横浜の開港と同時に
欧米人に仕えるために清国人が
横浜開港地(南京町)に買弁として、大勢やって来て、
欧米商人との貿易交渉、買い付け交渉の際に
活躍したのです。
華僑の土地は、当時の日本のみならず
海外のあらゆる港街などに拠点化し
海外裏社会ネットワークを築いていきました。
横浜開港地には、中国人(当時の清国人)の
働く商館は二百軒あったようですから、
横浜の歴史は、中国人の歴史そのものでもあることは、はっきりしていますよね…!
横浜中華街では、今も
中華民国の建国を記念して「双十節(そうじゅうせつ)=雙十節」が祝われ
街中に掲げられているようです。
双十節記念の根源は、
1911年(明治44年)10月10日に
辛亥革命の記念日として歴史に残り
それを横浜中華街など、日本のチャイナタウンで
祝福されるのだから、横浜中華街(横浜華僑)は
孫文派の土地だと断言できるでしょう。
横浜中華街の中にある、横浜中華学院の
前身の、中西学校は
孫文が華僑の子弟のために設立しました。
遺跡、史跡が多い理由なのです。
当時の孫文は、明治政府の対華二十一カ条の内容を知って危惧し
欧米列強化(富国強兵化)する日本政府に対して
「大アジア主義」を高らかに提唱したのです。
横浜開港と同時期に開港された、
神戸には、孫文は最後の来日をしており、
県立神戸高等女学校(現兵庫県庁)の講演会で
「大アジア主義」を発言、提案しており、
舞子の移情閣には
孫文と華僑の展示品が並ぶ
孫文記念館が今もありますね。
日本での中華革命を計画したり
中華革命党を結成したりで、
第三革命を画策して準備しました。
1890年代(明朝末期)には、満洲人排除の意見の内容での、書籍が増えたため
清朝打倒を目指す革命運動家たちは、
反清復明思想を利用し、鄒容による『革命軍』などの著作が、
権力者層や知識人への影響力を持ちました。
しかし革命は、困難になり
1925年に北京で、無念の最期を遂げました。
孫文略歴を見ますと、
1900年義和団の乱が起こる
(漢民族の権力者は、武力革命によって、
1905年東京都で中国同盟会発足
1911年〜1912年辛亥革命(中国同盟会配下の軍隊の一部が蜂起した。中国の南京に、臨時政府を樹立した。
辛亥革命は、干支である辛亥に因む。
10月に孫文の影響を受けた革命軍が
武昌と漢陽を武力制圧した。
黎元洪を都督として中華民国軍政府が
成立を宣言した。
清国は革命軍の制圧に失敗し、15省が次々と独立を宣言。
1912年1月1日に孫文を、臨時大総統に選んで、
革命政府が成立し、国号を中華民国と定めた。
以降は五族共和を政治政策スローガンにした)
孫文のような革命家が、中国で生まれ出た背景には
明朝(明=明国派)と清朝(清=清国派)という派閥の争いの裏側構造がありますね。
中国で、おもに、二つの派閥が対立し続けてきた歴史があります。
「反清復明」は、中国時代、明朝末期(清朝初期)に
秘密結社が起こした、明朝復興計画です。
明朝(明国)の復活は、
洪門と呼ばれる結社が画策してゆき
三合会、天地会
堂会や山会に繋がる一連の裏社会の存在があり、
蛇頭、秘密結社、
茶碗陣、桃園陣などの暗号文化があります。
もともと、中国で苦力(クーリー)として
働いていた労働者、奴隷貿易の奴隷や
出稼ぎ労働者が、のちに
横浜中華街(横浜開港地の横浜華僑)に
どんどん移住していたのです。
清国時代から運送業者、港湾建設労働者、
港湾労働者として、雇われた名残りが
幕末の横浜開港地の中華街形成にあるのでしょう。
歴史をみれば
それに対抗したのが、三藩と鄭氏政権です。
1673年(康熙12年)~1681年(康熙20年)に
三藩の乱が起きているのです。
この戦争では清国が勝利しましたが、
その無念さを抱いた明派が
横浜開港地に移転し、横浜中華街を拠点化し
横浜や神戸など、日本の開港地から
明国再興、明国復興を掲げて
倒幕運動を起こして、明治政府(欧米軍閥フリーメイソン=明国復興計画政府)を
樹立したのでしょうね。